会長挨拶
 
鈴木文彦岩手県人連合会 会長

「ONE TEAM」で

 年が改まって令和二年の新年、あけましておめでとうございます。
 昨年は何といってもラグビーW杯で沸いた年でした。台風で一試合が中止となる不慮はあったものの「釜石」の名が全世界に発信されたこと、そして日本国中がラグビーの競技としての素晴らしさと、その精神性の格調高さを共有できたことは、望外の慶事だったといえましょう。
 日本代表が掲げた「ONEワン TEAMチーム」——異なる文化や背景をもつ個人がお互いにリスペクトして一つになる—— は、これからの日本のあり方を示唆してくれたようです。そして岩手県人連合会の望ましき姿を思い重ねたりしていた中で、ちょっと面白い資料を見つけたのでご紹介します。
 昭和二五年に小野二郎氏(盛岡市出身・建築設計家・東京市建築部長)が「鹿島精一追懐録」に書かれた文の抜粋です。
 ——(前略)郷里関係の会合に南部同郷会というものがあった。明治の初期在京の旧藩出身者並びに学生にって、旧藩主を中心として作られたものであり、大正前期までは郷里関係の唯一の強力な会合団体であった。その頃先代の南部伯を会長とし、原・阿部・川村・田子などの政界人、山屋・栃内・原・米内・八角・及川などの海軍、井上・石川・板垣などの陸軍、杉村・出渕の外交官、田中館・新渡戸・田丸・三田・菊池の諸先生、鹿島・郷古の実業人などを擁して古老中老の多彩な宴会が開かれていた。実に華やかな会であった。
 しかし淋しいことには当時の同郷会には学生並びに青年の出席者が次第に減じて正に 寥々 りょうりょうたるものになっていた。会の構成が封建的であることが、当時の青年の思想的反発を買ったでもあろうし、古老中老の親睦会合をもってしては、学生並びに青年の関心を呼ぶに時の間隔が開きすぎていた。
 当時の幹事であった私たちはこの事態を憂慮した。学生こそは同郷会の至宝であり同郷会の推進力は常に青年でなければならぬ。そのような形に絶えず新陳代謝する本来の形に同郷会を取戻すことが幹事の責任でもあったので、在京各校の県人会に呼びかけて同郷会への 糾合 きゅうごうを試みたのであった。そしてこの時も同憂の先輩鹿島さんの力強い鞭撻が大きく働いたのでやれたことでもあった。これが胎動のきっかけとなりしばらくして新しく生まれたものは、旧藩意識を拭い去った在京岩手学生会であった。昭和初期のことである。(中略)この学生会を機縁として南部同郷会、両磐会、譫江会などの県出身者による割拠団体を超脱する融合機能が生まれた。そして数年後この学生会幹事の後身に依って在京県人の総合機関となった新岩手人の会が作られた。(後略)——
 もう百年以上も前から、今と変わらぬ若手会員不足に悩んでいたとは。ニヤリとし、感慨深いものがあります。
 少しでも改革を目指して、今年の新年会から会場を東天紅上野店に変えました。お誘いあわせの上、ご参加をお待ちしています。

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